▶ 開拓の概要
牟呂村地先の富久縞新田・明治新田の前面に広がる広大な寄州は、干拓の適地として早くから注目されていたが、冬季の強烈な西風による波浪のため干拓をするものがいなかった。
明治18(1885)年、愛知県令として赴任した勝間田稔(山口県出身)は、旧山口藩家老の人で第百十国立銀行(赤間関銀行)取締役の毛利祥久に、この干拓事業を勧めた。
毛利祥久は、明治20(1887)、「渥美郡牟呂村始め六ヶ村地先開墾凡反別一千百町歩、この工費金拾弐万六千八百壱拾四円弐銭」の「海面築立開懇願」と「目論見書」を愛知県知事勝間田稔に提出した。 干拓に先立ち灌漑用として、賀茂用水を延長する牟呂用水路築造工事が行われ(明治21年6月完成)、明治21(1888)年4月15日、新田築堤の起工式が行われた。 明治22(1889)年7月5日・7日に、留工事を行ったが、9月11日の暴風雨と津波によって堤防は破壊された。 明治23(1890)年5月、築堤延長6,729間、総面積1,049町3反7畝が完工したが、工費は40万円に及んだといわれる。
明治23(1890)年には、牟呂用水の灌漑によって数町歩の試作に成功し、翌24(1891)年には、植付反別は350余町となった。 明治25(1892)年には、作付面積574町歩、移住者も130余戸に達した。 しかし、明治24(1891)年10月28日の濃尾大地震による堤防の破損、翌25(1892)年9月4日の暴風雨は高潮を伴って、毛利新田に壊滅的な打撃を与えた。 毛利新田の大手堤防と柳生川堤防が決壊して修復の目処が立たず、毛利祥久は、再築を断念した。
明治26(1893)年4月14日、海部郡江西村(海部郡八開村江西)出身の商業資本家神野金之助注1(1849~1922)に4万1,000円で売却した。 毛利新田の失敗は、延長1里余の防波堤の決壊であったので、堤身を6尺高めて4間 (後さらに3尺高くした)とし、服部長七の人造石(たたき)工事を築堤に採用した。 明治26(1893)年9月16日、澪留を決行し、翌日、他の2か所の澪留も完成した。 牟呂用水樋門3万4,500円、人造石築堤4,300間18万5,000円の予算を組んだ。 総工費は70万円とも90万円ともいわれる。
明治26(1893)年には、約80町歩の水田に植付け、秋には約1,000俵の収穫があった。 明治27(1894)年には、300余町歩から4,000俵、同28(1895)年には550町歩で8,000俵の収穫に達した。 入植者も、明治29(1896)年ごろまでは、通い作であったが、翌30 (1897)年以後には、居住小作人が200戸を超えた。 明治28(1895)年6月には、牟呂村 磯辺村大崎村各村会の議決を経て吉田新田を神野新田と改称した。 明治29(1896)年4 月15日、神野新田開墾成工式を行った。
神野新田は、明治38(1905)年、神野家の直営から神野富田殖産会社、大正7(1918)年、神富殖産会社を経て、昭和8(1933)年以来、神野新田土地株式会社の経営するところであった。 第2次世界大戦後、昭和21(1946)年5月8日、農地解放が行われ、650町歩の土地に500余人の自作農が創設された。 昭和28(1953)年9月25日、台風13号の襲来によって、神野新田吉前新田の堤防2,713m(うち全壊394m)を破壊し、その復旧に10年の歳月と13億円の巨費を要した。
注1:明治40年頃、姓をジンノからカミノに改称しているが、新田名はジンノ新田のままである
▶ 現在の神野新田
・昭和50年頃から3号堤防の南が埋め立てられ、堤防の機能を失ってますが観音様は残っています
▶ 神野新田の位置
・豊橋市の西側の赤枠部
▶ 神野新田ができる前の地図(明治21年)
・赤で塗っている所が寄り洲(干潟)で干拓には適して見えた
・寄り洲は冬季の強烈な西風による波浪が運んだもので、貧弱な堤防では波浪で破損してしまう